なにもかもおなじになってしまうことがこわい

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苦手だ。

それが良しとされることであっても。

何かがひとつになることでそうは思えない側が悪いように扱われることが。


特に、悲しむべき場面で悲しめないことや、怒るべき場面で怒れないこと。


だってそれってそれぞれ感覚が違うんだから、それによって「こんなときに悲しめないなんて」「こんな事実を前にして腹が立たないのか」なんて言われても、悲しんだり怒ったりするのを表立って声を上げて騒いで、そんなのパフォーマンスにしか見えないというか。

それが心からそう思ってやっていたとしても。


そうすることで「自分は正しい感覚をもっている人間です」とわざわざ表明して共感を得たいだけに見える。


実際はそんなことはないと思う。

本当にそういう人たちはそれが正しいと思って、ちゃんと行動で示せる人なんだからそっちのほうがいいに決まっている。


でも私は「そうでない側」の人間なので、声高に掲げた何かが間違えている可能性を常に考えてしまうし、どう考えても「正しい」とされる価値観でさえ息苦しく思ってしまう。


そうじゃない人はどうすりゃいいんですかね。

言葉では言い表せない複雑なものを抱えている人は、声高に自分の意志を主張しない人は「ない」ものにされてしまうんですかね。


と、いうようなことを今日はずっと考えていた。