200324

 

 

大通公園にホタテ落ちてた。

 

 

 

  • せかいを終わらせる呪文を唱えて 翌朝目が覚めてしまっても

私が先日Youtubeの無観客配信ライブを見て感動した旨を長々つづったメールが春ねむりさんのラジオで読まれた。
 
私はラジオネームを聖☆かなこさんにしているのだけれども、ちゃんとセイントと読んでもらえてよかった。
 
無観客ライブには客がいない。
ライブというのはステージに立つ人間とオーディエンスの両方がいてこそのもので、お客さんがいないというのはどこに向けてのパフォーマンスなのかおそらく途方に暮れてしまうと思われる。
私はステージに立つ人間ではないけれど、表現というのは誰か別の人の目に触れて初めて成立するものだということは、ものを作っている人間の端くれとしてはある程度理解しているつもりだ。
 
私はあなたのライブを見てこんなにも心を動かされた。あの夜、客席が空っぽのライブハウスで叫んだあなたの声は遠く離れた街の私の部屋に届いた。ということをどうしても伝えたかった。
 
だからメールが読まれて本当にうれしかった。
 
お題があったりしたらたまに送ることもあるけど、ノンテーマで、ましてや春ねむりさんぐらい知名度のある方に直接メッセージを送るなんてめったにしないんだけど。
たまには勇気を出してみるもんですね。
 
 

  • ものを書くということ

 
誰かに何かを伝えるということはとてもこわい。
それが一見、耳障りのいいきれいな言葉だったとしてもそれが誰かを傷つけることもあるし不愉快になることもある。
100%正解の言葉というものはこの世には存在しない。
 
でも、伝えたいことがあるならやっぱり言葉にしなければいけないのかと思う。
難しいんだけど。
これだけ毎日文字をたくさん打っているのに不思議だ。
一体誰に宛てて、誰のために。
 
私は誰かの心を動かしたり人生を変えてしまうようなものは何一つ持っていないけれど、もし私が死んでしまってもここでこういう風に何を見て何を考え生きていたことを誰かに知ってほしいのかもしれない。
傲慢だよな。
 
文字になり読まれることで人は物語になる。
私は出来の悪いこの物語を書き続けなければならない。
 
 

  • 会いたい人には会えない世界で

 
私が会いたいと思っていても一生会わないであろう人というのは結構たくさんいる。
 
もう20年以上インターネットをやっているのでそれなりにインターネット上の付き合いというものも増えてきた。
とはいえ、私はあまり頻繁に人と交流するタイプでもなく、一方的にだらだらとこういう文字列をワールドワイドウェブに垂れ流しているだけなので、一般的な人付き合いの距離感がわからない。
 
一時期とても仲が良かった人もインターネットから去ってしまうと付き合いがなくなってしまう。それでなくとも人は皆変わる。私だって随分変わった。
少し前までとても会ってみたい人がいたが、私がその人のことを一瞬で嫌いになってしまったのでもうおそらくその機会は失われた。
 
実際会いたい人に会ったところで私のような人間は一方的に言いたいことをだらだら話すだけでインターネット上と何も変わらないのでそれに意味があるのかとさえ思う。
 
インターネットの性質上、嗜好や考え方が顕在化しやすいが故に比較的世界の捉え方が近しい人が集まりやすい側面こそあれど、「それはそれ」「これはこれ」なので会ったとて話が弾むかというと疑問だ。
 
共通言語は便利だが、共通言語に頼りすぎると物事の本質が見えにくくなる。
 
そもそも「あなたがこの世界のどこかで楽しかったりうれしかったり悩んだり苦しんだりしながら生きている」という事実を認識するそれだけで基本的に満足してしまうので、そこに私が介入するのもどうなんだっていう。他人の物語の読み逃げ
 
と、いう理屈を捏ねまくっていると、一体私は他者に何を望んでどういう付き合いがしたいのかというのが全然わからなくなる。
 
結局、誰が何を考えて生きているのかわからなくて怖いし他人からどう思われているのかも怖いから他人と関わろうとすることから逃げているのだ。と言ってしまえば全くその通りなのだけれど。
 
誰かに期待するのも誰かから期待されるのも疲れた。
他者に何かを望まれて嫌な気持ちになったことがあるから自分が誰かに対してそうなってしまっているのではないかというのが怖い。
 
もうこれに関しては、解決しようのない悩みなので一生付き合っていくしかないのだけれど。


こんなことを考えること自体がそもそも無駄で案外私が思うより他人は私に関心が無いので安心しろ。