円山に行った。
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本郷新と「無辜の民」
今日は札幌彫刻美術館に無辜の民を観に行った。
本当は犬鳴村を観に行こうと思ったが、席を取ろうとしたら最前列に1席しか空いておらず目を疑った。
仕方ないので明日観に行くことにした。
彫刻美術館は最寄りの地下鉄円山公園駅からかなり離れているため、マイナス気温の中30分近くかけて歩いた。
歩いている間はハイになっているので特に寒いだとかしんどいだとかは感じなかったのだが、美術館への向かう途中の住宅街は雪に埋まってしまい全く歩道が無く、車が来るたびにおそろしかった。
無辜の民は石狩浜にある本郷新のモニュメントであり、この作品について知ったのは昨年石狩浜に行きたくて調べていたときだった。本郷新といえば生命力に溢れた身体表現の彫刻のイメージだったので布でくるまれ身体の自由を奪われた無辜の民のヴィジュアルを見たときなかなか衝撃的だった。 pic.twitter.com/BBTqwF1im3
— 奏 (@emit_efil) 2020年2月8日
無辜の民はシリーズらしく、石狩浜にあるもの以外にも複数点存在する。「罪なき人々」の声無き声を表現しているという部分がとても好きだなと思う。決して明るい作品ではないが。 pic.twitter.com/fm6TGdDrNi
— 奏 (@emit_efil) 2020年2月8日
風雪の群像が爆破されたというエピソードは昨今の表現を巡る自由について考えさせられた。作品から何を読み取り受け取るかは受け手の自由なのだが、気に入らねぇから爆破するってセンスのない人間がやることだよなって思う。爆破していいのはモトリークルーのツアー停止契約書だけだよ。 pic.twitter.com/s5uaQSdLHC
— 奏 (@emit_efil) 2020年2月8日
本郷新の生前の制作風景のドキュメンタリー映像が流れていたので見た。
春香山のアトリエが現役の様子や(廃墟化したのは行ったことがあるが)、釣りを楽しむ姿などが映っていたが、実際の制作風景がすごいと思った。
巨大なブロンズの原型を作る際、自分よりも何倍も大きな作品に対して、人体のバランスをきちんと再現して粘土を造形していく。
私なんて紙に絵を描いてもデッサンが狂うのに、立体物を生み出していく人間の頭の中は一体どうなっているのだろうか。
本郷新の作り出す人体はとにかく美しい。昔は裸婦像なんて全然興味が無かったし何で服を着ていないんだと思っていたが。
やはりあれだけのものを作り出せるというのが才能なのだろう。
帰りに北海道神宮に寄った。
先月初詣に行ったのだが、あのときはとても混んでいたし特にお願いしたことなどなかった。
チケットが取れますようにぐらいしか願っていない。
幸いNEWSのチケットが取れたので効果があるのかもしれない。
しかも自分の名義しか持っていないのに取れすぎた上に同行の友人が都合により行けなくなったため別の同行者を探す羽目になったのだが。
しかし幸いにもありがたいことに同行者が見つかった。
私は普段神頼みなんてしようと思わない。
なぜなら幸せは自分が努力してつかみ取るものだと思っているからだ。
人任せでは決して幸せになれない。
私はてめぇ勝手に幸せになる。
しかし、私にはどうにもならないことがある。
私は私をいくらでも幸せにすることができても、他者を幸せにすることができないのだというのを最近感じることが多い。
そもそも他者を幸福にしたいなどと考えるのは思い上がりもいいところで、一体お前は何様なんだと考えてしまい自己嫌悪に陥る。
自分の都合で他者の生き方に干渉するなんていうのは本来やってはいけないことなのだろうと思う。
そういうことが重なってつらくなってしまった。
どうにもできないことは神様に頼むしかないと思った。
こんなわけのわからない願い事など神様は聞いてくれるんだろうか。
賽銭を投げ込んだ後、賽銭箱の横に願い事を書いてご祈祷のときに神様にお願いしてもらえるお手紙を書けるコーナーがあるのを見つけた。
誰も書いていなかったが。
こういうのがあるんだな、、、と思って願い事を書いた。
最近自律神経がめちゃくちゃなので体調がすこぶる悪い。
心身ともに健康になりたいと書いた。
あと友人が受験に合格して夢を叶えられますように。とか。
別の友人が私になんか頼らないで自分のためにちゃんと生きられますように。とか。
母の負担が少しでも減りますように。とか。
あともうなんか、私が大好きな人たちが毎日笑顔で過ごせますように。とか。
こんなざっくりとした願い事を神様が聴いてくれるとは思えない。
北海道神宮には鳥居が3か所ある。
そのうち、真正面にある鳥居には縁切りの効果があると先日調べていて知った。
私は縁を切りたい人がいた。
縁切りというのは、相手の不幸を願ってはいけないというルールがあるそうだ。
また、あんまりざっくり願うと意図しない形で(それもあまりよくないような形で)願いが叶ってしまうらしいのでなるべく具体的に願わないとだめだとか。
それは京都にあるめちゃめちゃ強力な縁切り神社の話らしいのだが。
願い事は怖い。
なぜなら自分が望んでいるものの裏側にある嫌なものと向き合わなければならないからだ。
現状の不満があるからこそ、それがどうにもできないからこそ人は神様にすがる。
たとえ願いが叶ったとして、それがどのようなもので成り立っているのか。
宇多田ヒカルの歌に「誰かの願いが叶うころ」という歌がある。
”誰かの願いが叶うころ あの子が泣いてるよ
みんなの願いは同時に叶わない”
だから私が何かを願うというのは、誰かが不幸になることすら厭わないという自分本位なものなのではないかという考えが頭をかすめてしまう。
北海道神宮が縁切りにどの程度効果があるのかはわからない。
ただ、私はその人に不幸になってほしいわけでは決してなく、むしろ幸せになってほしいと思っている。
ただ、私とはもう関係のない場所で勝手に幸福になってほしい。
それってすごい自分本位で嫌な願い事だと自分でも思う。
こんな願い事は神様は叶えてくれるわけが無いと思う。
縁切りは裏返すと縁結びらしい。
悪い縁を断ち切り、良いご縁とつながるように。というポジティブな意味の。
それ。それでいい。そういうのをお願いしたい。
その人にいいご縁があってほしいと私は思う。
自分勝手に。
とにかく疲れているときにこうしたパワースポットに行くのはアリだと思う。
私は人に会うととても疲れてしまうので『場』によって精神の安定を保っている。
雰囲気のいいお気に入りの場所に行くほうが心も体も休まる。
北海道神宮は確かに自然に囲まれていて、正月と違って人もそれほど多くなく空気も澄んでいるのでなんでもないときに神宮に行くのは割と好きだ。
美術館の帰りなど散歩ついでに立ち寄ることも結構ある。
いつもは混んでいて入れない、境内にある六花亭の「判官さま」というおもちも食べることができた。
すごいおいしいのな。これが110円だなんて、、、
お茶は無料。
午後4時過ぎの円山公園の空気がとても好きだ。
あまり冬に来ることがないというのもあるが、痛いほど冷たい空気と真っ白な景色に囲まれていると不思議と落ち着く。
心と身体のバランスが安定するというか。
私の精神構造とか心象風景とかがきっと冬の風景に近いからだろうと思う。
いつも心の中に白く冷たく静かな風景が存在している。
ときどき無性にそういう場所を欲してしまうので、急に山に行ったり海に行ったりしてしまう。
美術館に行くのもそういうところがある。美術館は静かで白いから。
今日はスピリチュアルな話ばかり書いてしまったので嫌だ。