雪がすごい。
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noteが楽しい
noteを書くのが楽しい。
文字を並べていくだけで今までなかったものが出来上がっていく。
しかし、リンゴが赤いことを「リンゴが赤い」と書くのは簡単で、かといって「それは水平線に消えようとする落日が燃え残った色から零れ落ちたような色のリンゴ」みたいな書き方になってしまうと回りくどすぎて読んでいて疲れてしまうので、そのバランスを取るのがむずかしい。
同じような表現の反復にならないようにしたりだとか。
私はプロットを組み立てたりしないで思いついたことをだーっと書いていく書き方なので、あまり長文を書くことが出来ない。
先日書いていたもので、「窓から差し込んだ」という光の描写が重なりそうになったので、一つは「西日が部屋を染めた」とした。
こういう表現を少しずつ変えていく工夫をしたりするのが楽しいのだが、肝心の話の内容という点に関してはまだまだ書きたいことを書くことが難しい。
普段思っていることを思っているまま書いたらただの愚痴になってしまうだけなので、それをもっと違った表現でアウトプットできるようになればいいのだけれど、そこまでの技量がまだないので、書く行為そのものが楽しいというものになりがちだ。
だから苦しみや悲しみや怒りでさえも美しい作品として昇華できる表現者の人たちはとてもすごいなと思うし、そういうものと向き合って曝け出す勇気がなければおそらくこういった表現は生まれてこないのだろう。それは身を削るようなとても苦しい作業だ。
私も何度も書こうとしてみるけれど、とても書き表すことができない。
なので今は文章表現が楽しいということだけを優先させてもいいと思う。
普段様々な文字の表現に触れていても、実際に書くと、何でも書けるが故にそのキャンバスの白さや広大さに途方に暮れてしまう。
文字というのは無限の絵の具とキャンパスで、たとえばここに「一億個のがんもどきが九十九里浜に上陸」と書いたとしたら、それはもう一億個のがんもどきが九十九里浜に上陸してくるというおよそ現実にはあり得ない光景をたった18文字の組み合わせで表現することができるのだ。
私には自分の痛みや苦しみを美しく詞的に言い表すことはできないが、九十九里浜に一億個のがんもどきを上陸させることはできる。
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羊文学「ざわめき」
羊文学の新しいアルバムを買った。
収録曲が5曲なのでミニアルバムやEPという位置付けなのかもしれない。
「ざわめき」というタイトルから、昨年リリース「きらめき」とおそらく対になっているのであろう。
私が羊文学の曲を聴き始めたきっかけが、昨年たまたまラジオで聴いた「マフラー」という曲だった。
この曲を聴いて、海が見たくなりまだ雪の残る小樽へ行った。
この曲の歌詞には全く海など出てこないのだが。
羊文学の音楽は冬の港町のような肌を刺すような冷たさとどこかノスタルジックな温かさが同居している。というのが私の感覚なのだが、今回リリースの「ざわめき」は、私が最初に感じた羊文学のそのイメージにとても近い。
今回は寒い時期のリリースということもあるだろう。
「きらめき」はそのタイトル通り、夏の午後、アイスが溶けてしまったクリームソーダのような作品だった。
ポップでかわいらしくて、でもちょっと尖っている。
今月末、札幌芸術の森アートホールで開催される「OTO TO TABI」というフェスがあるのだが、羊文学が出るということで、チケットを取った。
私は今回初めて羊文学のライブを見るのでとても楽しみにしている。
あのフェスの雰囲気にとてもよく合うと思う。
羊文学 "人間だった" (Official Music Video)
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最近買った百合漫画の話
最近百合漫画を買いまくっている。
百合漫画が好きなのだが百合漫画のどういう所が好きなのかと言われると、なかなか難しい。
百合漫画で描かれる関係性というのは一般の恋愛漫画よりももっと繊細で丁寧に描かれているように思う。
少なくとも「女だから」という評価基準がこの関係性には介在しない。
ちゃんと「人」として対等な関係性がある気がする。
百合漫画に出てくる人間は人付き合いが苦手で不器用であることが多い。
私が選んで読む漫画がたまたまそうなのかもしれないが。
不器用で欠けている人間同士が寄り添い合う。
そういう部分が好きですね。
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アケガタユウ「月とすっぴん」(1)
天真爛漫で明るいあかりと昼行灯でさっぱりした性格のしほ。そんな真逆の2人のほのぼのとした日常のやりとりが描かれている。読んでいて幸せな気分になる。とってもかわいい。
全くタイプが違う2人がお互いのことをちゃんと尊重しあっているところがいい。
しかしそんな中にも生きていく中で抱えてしまう漠然とした不安が常に流れていて、それ故にささやかな幸せがキラキラとした輝きを放つ。
どの話もめちゃくちゃいいのだが、食パンの話としほがあかりの実家にご挨拶に行く話が特にいい。
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平庫ワカ「マイ・ブロークン・マリコ」
百合漫画で括っていいのかわからないが、私の中での百合の基準は恋愛関係の枠に収まらない様々な解釈の広義の意味での女性同士の関係性なので、友人の遺骨を強奪して海を目指すのは百合です。
とにかく話のドライヴ感がすごい。
片方は死んでいて回想の中にしか出てこないのだが、主人公のシイノが救おうとしてもマリコが結局自ら死を選んだことにより、シイノはマリコとの思い出を回想しながら自問自答の迷路に迷い込むことになる。
それを振り切るかのように一心不乱に海を目指した先に待ち受けるラストの微かな希望が爽やかな読後感を残す。
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西尾雄太「水野と茶山」(上)(下)
同作者の「アフターアワーズ」がとても好きだったので読んでみたのだが、「アフターアワーズ」の都会的なキラキラとした高揚感と切なさとは真逆の、田舎の閉塞感の中でのヒリヒリとした共犯関係が描かれている。
町の主要産業を担っている茶園の娘である茶山と、対立する町会議員の娘・水野。学校でひどい虐めを受けている茶山と、周りからの特別扱いにうんざりしている水野は、お互いの中にどこか似ている部分を感じ惹かれあう。
しかし町を二分する決して相容れないはずの2人の関係は決して周りに知られてはいけない。
狭い町を取り巻く大きな流れの中でどこにも居場所のない2人がそれぞれ選びとる未来。
とにかく淀んだ水の中で呼吸ができない魚のような田舎の閉塞感の描き方が生々しい。
話が進んでいくにつれ、茶山を執拗に虐める會川の家の事情なども明らかになっていくのだが、家に縛られ土地に縛られるが故の『どうにもならなさ』が作中一貫して描かれている。
互いを必要としている2人がそれぞれの答えを選びとるという点では「アフターアワーズ」に通じる部分もある。
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雨水汐「欠けた月とドーナッツ」(1)
「普通」であることの強迫観念に囚われたOLひな子が、周りに流されずに仕事をこなす先輩の佐藤さんとの関わりの中で自分らしい生き方を見つけていく。
完璧なように見える佐藤さんがちょっと抜けているところがあったり、笑顔が可愛かったり妹に優しかったりといった部分があるのがとてもかわいい。
こんなやさしい先輩が欲しい、、、
1巻の段階で2人が付き合ったりとかいう展開は特になく、お互いの心の歩み寄りを丁寧に描いているという部分がよい。
「生きにくさ」を感じている人間にやさしい心温まる話。
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深山はな「一端の子」
それぞれ一話完結なのだが少しずつ登場人物が重なっていたりする。
今まで挙げてきた作品は当人同士が両思いな作品が多いが、この作品は人が人を愛するという気持ちが必ずしも美しくやさしくあたたかいものであるとは限らないということが描かれている。
それはときに独占欲や嫉妬心であり、後悔。そしてなにより残酷なのは、生まれた気持ちさえも「ないもの」として扱われてしまうということ。
そしてそれは特別なことでもなんでもなく、どこにでも誰にでもありふれていることなのだろうと思う。
声に出して伝えること、伝えるのを諦めたこと、誰にも言えないこと。伝えることで失われること。
その「ありふれた痛み」に溢れた作品。